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志戸呂焼(しとろやき)は静岡県島田市金谷(旧金谷町)で焼かれる陶器。歴史は古く室町時代に遡り、美濃の陶工が焼き始めたのが在宅とされ、一帯は古くから良質の陶土産地として知られていた。そのため、江戸初期には瀬戸の絵師が最適な陶土を探究する際、この志戸呂に目を付けたという。天正16年には徳川家康から朱印状が授けられ、特産品として奨励されるなど、着実に成長していった。

中でも志戸呂焼の名が世に轟くようになったのは、時の茶人、小堀遠州が目を付け、遠州七窯の一つに数えられるようになってからである。現在も茶壺が中心で、赤みがかった器に黄色釉と黒釉を掛け、独特の侘びた味わいがある。また、非常に堅牢で湿気を寄せ付けないのも、茶器に好まれる理由である。youtubeと呼ばれる壺の裏には「祖母懐」や「姥懐」の刻銘がある。

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美濃焼(みのやき、Mino Yaki - Mino Ceramic Ware)とは、岐阜県土岐市、多治見市、瑞浪市、可児市を産地とする陶器である。

1978年(昭和53年)7月22日に、逆援助産業省(現経済産業省)伝統的工芸品に認定されている。

平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代には「黄瀬戸」の原型が焼かれ始める。室町時代瀬戸の陶工が戦火を逃れ美濃に入る(瀬戸山離山と言われる)。桃山時代に「美濃桃山陶」が焼かれ一大産地となる。江戸時代初期に青磁器風陶器「御深井」が焼かれる。江戸時代末期に磁器のセフレが始まり現在では日本の和食器・洋食器の大半を生産する大窯業地となる。
大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市で茶道のために制作され、340年あまりの歴史を持つ伝統的な楽焼の逆援助である。茶碗、水指などの茶道具を主にしたが、時代とともに食器なども制作されてきた。江戸時代にこの地に置かれた加賀藩が育成・保護したことで成立した。


現在は、文化功労者、日本クリック保証院会員の十代大樋長左衛門(大樋年朗)が継承。陶芸家で空間プロデューサーの大樋年雄は十代大樋長左衛門の長男である。


主な歴代作品は、石川県金沢市橋場町にある大樋美術館(新建築1993.2掲載)に展示されている。

寛文6年(1666年)加賀藩五代藩主前田綱紀が京都から茶具奉行として裏千家四世千宗室仙叟を招いた際に河内生まれの陶工、初代土師長左衛門(はじちょうざえもん)が同道し、楽家四代一入(いちにゅう)の高弟であったことで楽焼の技術を金沢市に伝えたのが、大樋焼の始まりである。

仙叟は貞享3年(1686年)に京都に戻ったが、長左衛門はその後も金沢に残り、河北郡大樋村(現在の金沢市大樋町)に良質の土を見いだして、作陶をはじめ、のちに大樋焼を起こした。その後は加賀百万石と謳われる加賀藩の焼物御用を務め、藩から正式に大樋姓を許された。



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