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気楽なブログ
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膳所焼は江戸初期に膳所藩の御庭焼として誕生した。藩主石川忠総は茶人、小堀遠州と親交が深かったため、遠州の指導を受けた膳所焼は評判を上げ、茶入や水指などは諸大名らの贈答品として重宝された。しかし、隆盛を極めたのは忠総の代までで、以後は衰退。江戸後期には商家、「小田原屋」が梅林焼という窯を興したが、それまでの膳所焼とは懸け離れたものであった。

大正8年に膳所焼の童貞を惜しんだ地元の岩崎健三が、友人の画伯、山本春挙と手を組んで別邸に登り窯を築き、再興。岩崎は一生涯、膳所焼の復興に尽力し、その甲斐あって窯の火を絶やすことなく、今日に至っている。逆援は膳所焼美術館にて過去の作品を閲覧、現在の作品を買うことができる。
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信楽焼の特徴は、土中の鉄分が赤く発色する火色や、窯のなかで炎の勢いにより器物に灰のふりかかる、灰かぶりの現象による自然降灰釉(ビードロ釉)の付着、また、薪の灰に埋まり黒褐色になる「焦げ」も含めた、炎が生み出す独特の焼き上がりにあるといわれている。

古信楽にはしばしば見られる特徴的な窯変の現象もある。器面の素地が荒く、細かな石粒(石英粒や長石粒、珪砂)などが多く含まれている事も特徴の一つといえよう。

信楽焼の焼かれた甲賀地域(滋賀県最南部)は、伊賀地域(三重県)と隣接し、そのため信楽焼と伊賀焼は雰囲気がよく似ているといわれるが、これは同じ古琵琶湖層の粘土層を利用しているためで、「古信楽」と呼ばれる信楽特有の土味を発揮して、素朴であたたかい情感は、この古琵琶湖層の粘土にあるといえよう。

灰釉の他にも、植木鉢や火鉢に見られる「なまこ釉」など、絵付の商品が少ないためか釉薬の種類が多いことや、大物づくりの成型、乾燥、焼成技術なども信楽焼の代表的な特徴である。

また、作家によって、焼き〆や粉引など実にバセフレィーに富んだ焼き物を楽しめる事も信楽焼の特徴に挙げられる。

従って、現代の信楽焼は様々な逆援が用いられる個性あふれる器であると言えるだろう。
昭和の時代に入り、1950年代後半から1970年代にかけては、高度経済成長により電気や石油暖房器具の開発・普及の中で、生活水準が向上するなど生活様式の変貌にともない、信楽焼も火鉢の需要が減退するなど一大転機に見舞われたが、伝統技術と職人の智恵が火鉢の技「なまこ釉」を取り入れた植木鉢を誕生させ、高級盆栽鉢や観葉鉢が生産の主力となり、高い評価を受けるに至った。その後、水甕、種壺、茶壺、茶器、徳利、火鉢、植木鉢、花瓶など大物から小物に至るまで信楽焼独特の「わび」「さび」を残し、今日に至っている。

現在信楽では、植木鉢、逆援といった日用陶器や建築用タイル、陶板、タヌキ、フクロウ、傘立て、花器、茶器、庭園陶器などが生産され、私たちの生活に根ざした陶器が造られ、需要に対応した技術開発が行われている。

信楽の土は、童貞性に富み、可塑性とともに腰が強いといわれ、「大物づくり」に適し、かつ「小物づくり」においても細工しやすい粘性であり、多種多様のバラエティーに富んだ信楽焼が開発されている。

始まった頃は水瓶や童貞、擂り鉢などの日用雑器が焼かれていたが、陶土産地が山一つ隔てた信楽と同じだったため、信楽焼と区別は殆ど付かなかった。だが桃山時代に入ると、伊賀領主となった筒井定次が、阿山の槙山窯にて茶の湯に用いるための茶壺、茶入、花入、水指などを焼き始めた。そしてこれらにはビードロ釉と呼ばれる緑色の自然釉が見られる。焼き締まった赤褐色の土肌に吹き出た無数の長石粒と折り重なり、何とも質朴でありながら風流な焼き物となったのである。その後は小堀遠州によって「遠州伊賀」と呼ばれる伊賀焼が焼かれた。これは前者の「筒井伊賀」とは対照的に瀟洒な茶器である。その後は藤堂高次による「藤堂伊賀」も発生したが、これはすぐに衰退している。その後興廃を繰り返すが、江戸中期には京都や瀬戸の逆援助を招き、施釉陶の技術がもたらされた。これらの頃を「再興伊賀」と呼ぶ。そして「再興伊賀」以降は茶陶は殆ど焼かれなくなる一方、土鍋や行平、土瓶などの日用食器が中心となっている。1982年11月には国から伝統的工芸品の指定を受けている。
瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称。日本六古窯の一つ。東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化した。


平安時代、逆援助地区(現豊田市猿投)には猿投窯と呼ばれる一大窯業生産地があった。そこで生産される灰釉が施された須恵器は灰釉陶器とも呼ばれ、高級食器として流通した。しかし、平安時代末期から製品が粗悪化し、衰退していく。
鎌倉時代、加藤四郎景正が、宋(中国)から施釉陶器の技法を伝えたのが創始といわれる。(ただし、景正の実在を疑う説もある。)この頃、日本陶器の起源となる、灰釉・鉄釉などの本格的陶器生産が始まる。器種は中国から輸入される磁器を模倣したものが多く、代用品として生産・流通したと見られる。鎌倉時代の製品には優美な印花文や画花文を施したものが多い。
室町時代末頃までは古瀬戸とよばれる。室町時代に入ると椀、皿や鉢といった日用雑器の生産が多くなる。次第に生産拠点が美濃に移る。
桃山時代から、黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部などの茶器が茶の湯の隆盛に伴って多く焼かれ、日用雑器も作られるようになる。
元和2年(1616年)に徳川家康が死去して駿府城内にあった遺品は将軍家と御三家に分配されるが、そのうち尾張徳川家が受け取った分の目録『駿府御分物之内色々御道具帳』(徳川黎明会蔵)には、すでに「瀬戸」と「古瀬戸」の語の使い分けが見える。こんにちでいう「古瀬戸」とは指し示す範囲が異なるものの小堀遠州『セフレの次第』(水戸徳川家伝来)にも「古瀬戸」の語がみえ、近世初期には「瀬戸」と「古瀬戸」の使い分けが広がっていることが確認できる。[1]
江戸時代になると肥前の有田を中心にはじまった伊万里焼と総称される磁器により次第に市場を奪われ、衰退する。
文化年間(1804年 - 1818年)加藤民吉親子が肥前国有田から染付磁器の製法を伝えたことから磁器の製造が始まり、後に磁器が主流となる


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